Kind's room

アニメの感想、考察など。

一里ぼっちから読み解く「ぼっち」の生態について

 世の中には2種類の人間がいる。

「努力しなくても勝手に友達ができる人間」

「努力しない限り友達ができない人間」 

 

後者の場合、努力しなければ友達ができることはない。つまり、何もしなければ「ぼっち」一直線だ。

ではなぜ、「ぼっち」は「ぼっち」になってしまうのか。

 

・友達が欲しいのに人見知りとコミュ障を拗らせて行動できなかった

・性格や素行など何らかの原因により嫌われてしまった

・趣味が一人でも楽しめるものだから友達作る必要がなかった

・そもそも他人に興味が持てず友達を作ろうとしなかった

・ぼっちというステータスにむしろ誇りを感じていた

・人間関係は必要最低限の事務的なものだけに留めていた

・かつての人間関係に固執して新たな人間関係を構築しなかった

・単独行動を好みすぎていつの間にか周りに人が居なくなっていた

・アブノーマルな趣味嗜好を持っており人が寄ってこなかった

限界集落すぎて友達どころか人と接する機会すらなかった

 

などなど。ぼっちの数だけ「ぼっち」の理由は存在するものであり、挙げだしたらキリがないのでこの辺にしておく。

 では、「ぼっち」はどのような生態で、この現代社会で生活しているのだろうか。本記事では、ある一人のアニメキャラにフォーカスして、それを分析していきたい。

 

 

2019年4月より放送中のTVアニメ『ひとりぼっちの〇〇生活』は、「ぼっち」の主人公・一里ぼっちの、”脱ぼっち”に奮闘する姿を描いたハートフルコメディである。

私はアニメ版しか知らないため、一里ぼっちに対する印象は、この記事を執筆している時点で放送された、たった4話分のみだ。

しかし、この一里ぼっちという女の子に惹かれる要素は、その4話だけでも十分に揃っていた。

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公式サイトより

こちらが本作の主人公・一里ぼっち。一里という姓の家庭に生まれてぼっちなんて名前つけられたら普通は家庭裁判所に改名申し立てを辞さないが、そんなことは一切考えない、心優しい女の子である。

 

そんな彼女が「どのようなぼっちなのか」「なぜぼっちなのか」を、シーンごとにピックアップし、彼女を通して「ぼっち」の生態について分析していきたい。

(※)以下の内容は筆者の主観と偏見と、ときどき実体験に基づくものです。

 

 

ぼっち要素その①:問題に対して解決策ではなく現実逃避で乗り切ろうとする

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第1話より

幼なじみのかいちゃんと交わした(無理やり交わされた)「中学卒業までにクラス全員と友達になるまで絶交」という鬼畜この上ない約束。その約束を達成するうえで立ちはだかるのが、そもそも人見知りで声をかけられない問題。それを乗り越えるためにぼっちが打ち出したのは、「友達をつくらなくても約束を達成できる作戦」という、解決とはかけ離れた、ただの現実逃避だった。

「ぼっち」の生態として、その臆病な性格ゆえに失敗を恐れる。そのため、目の前の問題に対して第一に考えることは、「どうやって回避しようか」なのだ。その理由としては、人を巻き込みたくないからだ。「ぼっち」は人に迷惑をかけたくない生物なので、自分一人の範囲でできることを模索する。だが、一人でできることなんて限られている。だからといって、人を頼ろうとはしない。そもそも頼れる人がいない。そうなったとき、自分一人で何ができるか。そう、「逃避」なのだ。

 

ぼっち要素その②:ちょっと話しかけられただけで多幸感を得られる

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第1話より

今では仲睦まじい砂尾なこに、ぼっちが初めてかけられた言葉は「なんだよゲロ」だった。しかし、話しかけられた内容よりも、話しかけられた事実が重要なのだ。

「ぼっち」の生態として、基本自分から話しかけることができない。しないのではなく、できない。苦手ではなく、不可能なのだ。人との距離感を測ることができないため、まずアプローチの仕方が分からない。だから、自分から話しかけたとしても、会話のキャッチボールすらできず、相手に迷惑をかけてしまう。そうすると、罪責感に苛まれて自分も病んでしまう。そして、ますます対人コミュニケーションに苦手意識が芽生える。一度芽生えたその苦手意識を取り払うには、実体験に基づく成功パターンの構築、もしくは、自分の抱えている悩みを相談できる相手が必要だ。しかし、臆病な「ぼっち」に苦手意識を取り払うためのチャレンジ精神なんてものは存在せず、そもそも悩みを相談できる相手を作るステージにすら立つことができないので、はっきり言って詰みだ。現状のまま日常生活を過ごしていれば臆病だけが残り、苦手意識だけが成熟していく。そうすると、もはや人に話しかけることは、苦手の域を超える。

そんな悩みや葛藤が一発で解決する魔法がある。それは、「人から話しかけられること」だ。抜本的な解決方法である。「ぼっち」は話しかけられただけで、よほどのことがない限り、その人に対する信頼は頂点に達する。こんな単純な生物が他にあるだろうか。いや、ない。ちなみに「ぼっち」は、1日に会話した人数(会話が成立した人数)が多ければ多いほど、その日の満足度も高くなる。

 

ぼっち要素その③:人の話を理解できない

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第2話より

なこの悩みが知りたいぼっち。対して、なこの返答は「入学以来変なのに付き纏われていること」だった。少しジョークも混ぜつつ、ぼっちに感謝の気持ちをサラッと伝えるなこのイケメンっぷりが発揮されたシーンであるが、当の本人にはジョークがジョークだと伝わらない。素直な性格が災いして、言葉をありのまま受け取ってしまう。

「ぼっち」の生態として、コミュ障である場合が多い。コミュ障とは一口に言っても、人見知り=コミュ障ではない。コミュニケーションを交わすうえで重要なスキルが欠落していて、会話が円滑にいかない状態、それがコミュ障であると私は考えている。

「自分の思っていることをまともに言語化できないことが多い」

「相手の話していることをまともに理解できないことが多い」

この両方を満たしている人は、すでに「ぼっち」である可能性が極めて高い(偏見)。言わずもがな、ぼっちはこの両方を満たしている。なぜ人の話を理解できないかという点については、医学や心理学の話も関連してくると思われるので、ここでは割愛。

 

ぼっち要素その④:人の話を聞かない

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第2話より

なこに謝る際、体操服に着替えたぼっち。「なんで着替えたの?」というアルの至極真っ当な問いに対し、ぼっちは「(なこちゃんは)なんで怒ったんだろう...」と、すぐ隣にいるアルの存在をまさかのアウトオブ眼中。

「ぼっち」の生態として、というか「ぼっち」に多い内向型人間の特徴として、一つのことに集中してしまい、他のことが疎かになる。そのため、何か考え事をしていると、人の話を聞く心の余裕が生まれず、人の話に耳を傾けることができない。そもそも、人の話に興味を持てないというパターンもある。

人の話を聞かないという点では第3話の、なこを家に招いたシーンも印象的だが、そこは後述。

 

ぼっち要素その⑤:マイペースであることへの自覚がない

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第3話より

ぼっちに対して最も「ぼっち」の素質を感じたのが、なこを家に招いたシーンだ。まず人の話を聞かないのはここでも健在、さらに自らの用意した「台本」に沿ってその日のスケジュールを進行していく。相手のことを考えているようで「相手のことを考えている自分のこと」しか考えていない。

「ぼっち」の生態として、単独行動を好むため、どうしてもマイペースになりがちだ。さらに、集団行動に慣れていないため、人に合わせることができない。自分が人に合わせている、と思っている場面でも、実は人に合わせてもらっていることが多い。そう、自分のペースに相手を付き合わせてしまっていることへの自覚すら持てないのだ。

 

ぼっち要素その⑥:頑張っても空回りしかしない

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第3話より

なこを頑張っておもてなしするはずが、ティーカップを割ったり、紅茶をこぼしたりなど、かえって迷惑をかけてしまったぼっち。おもてなしの方法よりも「なこちゃんを頑張っておもてなしする」というやる気だけが先行して、行動が空回りし、計画は案の定破綻する。

「ぼっち」の生態として、スケジュール管理が杜撰になりがちだ。単独行動しかしてこなかったツケはこういう場面で回ってくる。普段は一人で行動するため自分のことだけを考えた予定を立てられるが、相手がいる場合、相手のことも考えた予定を立てなければならない。彼女は心配性のため、計画はむしろ慎重に立てる派なのだが、なにせ集団行動の経験が圧倒的に不足しており、相手のことまで綿密に考えた計画が立てられない。やる気に計画の質が追いついてないため、徐々に計画がうまくいかないことが判明し、自分が空回りしていることに気づく。

 

ぼっち要素その⑦:極力声は出さない

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第4話より

中途半端に顔見知りのご近所さんが立ち話で道を塞いでいた際、ぼっちは後ろから挨拶をして道を開けてもらうのではなく、ちょっと足音立てたら勝手に道を開けてくれるだろう、という淡い期待だけを抱いていた(結果存在に気づかれて向こうから挨拶された)。

「ぼっち」の生態として、いざというときに声が出ない。もしくは出さない。「ぼっち」にとって「声を出すこと」は、普段使わないエネルギーを消費する行動であり、それが自分から話しかけなければならない状況だとなおさらだ。中途半端な知り合いとすれ違いそうになったら、挨拶する、つまり自分から声をかける状況が発生する。それを回避するために、気づかないふりをしてその場を過ぎ去る。向こうから話しかけられて初めて「あっ、おはようございます!」と、さも今気づいたかのような感じで返すのだ。挨拶は社会人の基本であるが、「ぼっち」にとってそのハードルは想像以上に高い。

 

ぼっち要素その⑧:他人と他人は大体仲良しと思っている

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第4話より

なこがソトカへ師弟関係について説いている際、ぼっちはその様子を見て「2人は仲良いんだ」と呟いた。ちなみに2人がマンツーマンで話しているのは、これが初である。

「ぼっち」の生態として、客観的な「友達」の定義が曖昧である。例えば、AさんとBさんが2人で喋っていた場合、仮にそれが事務的な会話であっても、会話が成立しているだけで「2人は親友同士なんだな」と勝手に思い込んでしまう。友達が少なければ、友達と言える判断基準のパターンも少ない。ぼっちの場合は現状、友達以外の人とは会話が成立しないため、自分のなかで「会話が成立する人=友達」という基準が成り立っている。むしろ、これしか友達における判断基準を持ち合わせていないため、アルに「喋っているだけだよ」と言われた瞬間、一瞬パニックに陥ってしまったのだろう。

 

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以上が、TVアニメ『ひとりぼっちの〇〇生活』1話~4話までで、一里ぼっちを通して読み解いた「ぼっち」の生態だ。

 結論からして、私はこの一里ぼっちというキャラが好きだ。なぜなら、共感できるポイントがあまりにも多いからである。今までの「ぼっち」キャラは、単に人見知りなだけだったり、性格が捻くれていたりといった部分でしか「ぼっちを構成する要素」を感じられず、どこかもやもやしていた。しかし、一里ぼっちはどうだろうか。はっきり言って、要素を的確に押さえすぎである。全国の「ぼっち」に、彼女の姿はどう映っているだろうか。ちなみに私は自分が鏡に映っているような感覚である。

加えて、まだ本編でその背景が描かれていないため、本記事では詳しく言及できなかったが、ぼっちはかいちゃんとの約束がなければ、友達を作るための努力をしなかったかもしれない。「ぼっち」は過去の人間関係に固執する傾向にあり、かつて友達が居たという事実にいつまでも縋り続け、自分で自分を満足させ、いつまで経っても新しい友達を作ろうとしない。そうなるのではないかと、いち早く危機を察知したかいちゃんが、あえて突き放したのではないだろうか。

しかし、ぼっちの「ゼロから人間関係を構築した」という事実は変わりない。彼女が砂尾なこや本庄アルといった最高の友達に出会えたのは運が良かったのももちろんあるが、彼女らを引き寄せたのは、かいちゃんとの約束を果たすために、自分の苦手を克服するために、ぼっちが勇気をもって行動を起こした結果なのだ。

 一里ぼっちという女の子を通して、この世の「ぼっち」は元気をもらっているに違いない。「ぼっち」が誰かを救うなんて難しい話だが、その生態を忠実に描いているこの作品に、そして一里ぼっちという一人の女の子に、この文章を書いている私はちょっと救われていたりする。