『安達としまむら』5話について~無慈悲としまむら~
『安達としまむら』第5話についての感想と解釈が少しだけ長くなったのでブログへ。というか劇中のセリフを引用するとツイッターの140字で納めるのが難しい。
この作品は登場人物の独白が難解なので、それなりに咀嚼する必要がある。それほど難しいのは、登場人物の心情を繊細に扱っていることの裏返しなのだろう。
※以下、原作未読での解釈
- 安達とごまかし
まずは安達視点のAパート。クリスマスにしまむらを誘いたい安達。あまりにもしまむらのことを考えすぎて無意識にノートに「しまむら」を書いてしまう。
「筆圧が強かったのか、消してもうっすらと名前は残った。瞼を閉じて寝て、明日になっても、昨日のしまむらを忘れないことに少し似ている。」
やってることのヤバさを詩的表現の美しさでごまかすんじゃないよ。
- 特別としまむら
そしてしまむら視点のBパート。
好きの気持ちが今にも溢れ出しそうな安達と、その重さに気づかない(むしろ遠ざけてるのか?)しまむらの温度差が無慈悲に描かれていた。
安達が顔を赤らめながらクリスマスに誘ったシーン。しまむらは「なんで自分を誘ったのか?」「なんでクリスマスなのか?」を考える。安達のもじもじした態度と紅潮した顔、そしてクリスマス。誰がどう見てもそういうことである。
それをなんとなく悟ったしまむらの反応は、少なくとも「嬉しい」とは思ってなさそうだった。むしろ、そんなに自分を特別視されても困る、と言いたげに感じた。安達は誰かと一緒に居たいだけ、その誰かがたまたま私。そう納得して自分を安心させた的な。
- 他者としまむら
「なんで?と聞いてしまうと、私たちの関係の脊髄が、ぐにゃりと曲がってしまいそうな気がした」の部分。
安達のまるで告白のような態度。「なんで?」のその先を聞いてしまえば、少なくとも今の距離感ではいられないし、一度縺れた関係を修復する努力をするほど安達を特別視していない。安達に限らずそもそも他者への関心が薄い。そんなしまむらの冷めた人間性を感じるセリフだった。人間関係のあれこれを"摩耗"と表現する女は伊達じゃない。
- 無慈悲としまむら
「しまむらは言った。なんで私なの?と。そんなの簡単だ。"私はしまむら"だからだ」(Aパート終盤・安達)
「なんだ。誰かと一緒に居たくて、でも他に友達が居ないから、私にお鉢が回ってくる。"私と"ではなく"誰かと"」(Bパート終盤・しまむら)
ここの安達としまむらの独白が綺麗に対比になってるのが無慈悲。安達はしまむら以外はありえないと思っている。でも「しまむらが想像する安達」は、私(しまむら)でなくてもいいと思っている。そういうとこだぞ、しまむら。
ちなみに5話のラストシーンで、しまむらが安達と一緒に登校したかった理由も「後ろに乗せて行ってくれよ〜」という。普通に一緒に登校したかったから、ではないのが無慈悲...。
P.S.
日野と永藤パートももっと見せろォ!